和服から見られる日本人の美意識
Ⅰ.序論
各民族は自分の民族服がある。大和民族も例外ではなく、和服は大和民族の伝統的な衣服として、世界でも有名である。また、日本女性の美しさを表している。その古典的な優雅と東洋的な気風が日本にだけでなく、世界の人々にも魅了される。
和服は、日本人の“第二の皮膚”、“日本人のこころ”を表していることができる。そして、和服には、日本の風土や日本人の美意識が凝縮され、作られる時代の文化も反映されて奥深い魅力に溢れている。
その上、時代によって、いろいろな和服がある。たとえば、以前の古代から奈良時代にかけての貫頭衣、平安時代の十二単、江戸時代に小袖が流行した。 村上信彦が『服装の歴史』の中で、時代によって、女の生活と服装の関係を研究している。村上は服装を理解した上で、この本を書かれた。また、“女の服装は、悩み、苦しみ、ゆがめられ、さらにそこから脱け出ようとしている女の生活の鏡である。”と認めていた。しかし、どうして女の和服は時代によって、変化してきたのか。また、この変化と日本人の美意識とはどのような関係があるのか。これについての研究はまだ十分ではない。
本稿では、和服と美意識との関係を研究したい。特に、女の和服という方面から見た日本人の美意識、また、これに対して分析する。
以下は、女の和服の変化を取り上げ、美意識との関係を分析したい。
Ⅱ.本論
2.1奈良時代
令義解、令集義解、『日本紀略』などの書物と、正倉院などに現在残っている資料から見ると、この時代の衣服は少し分かっている。
奈良前期に、日本人は前の時代と同じ、貫頭衣①のような服を着ていた。貫頭衣の構造がじつに簡単で原始的なところから、これが日本のいちばんふるい服装だということになっている。それゆえ、この貫頭衣はただ人々の基本的な需要を満たすために、作られたものである。言い換えれば、この時の服は人々に
素朴な感じを与えるだけである。どうして、奈良時代の日本人は貫頭衣のようなものを着ていたのか。これは、奈良前期は生産力は低下だからであった。人々はただ日常生活の需要を満たすために、働いていた。だから、服装に対する需要がそんなに高くなかった。それで、奈良時代の日本人はただ衣服の基本的な三つの機能(保護、保温、活動性)に基づいて、貫頭衣のような服を着ていたと思う。しかし、それだけではなく、もうひとつの理由は、きっと当時の日本人はこのような衣服の様式が好きだから、着ていたと思う。しかも、この好きという感じは、美意識に基づいて生じてきたわけである。つまり、たとえこのような古い衣服としても、日本人の原始的な美意識に満ちあふれる。
奈良時代は中国の唐時代の盛期に当たる。遣唐使により中国の文化が輸入された。また、中日交流が日々に頻繁になっていたにしたがって、奈良時代の服装は唐時代の服装に深い影響を与えられた。それなので、奈良後期に、ゆったりしたシルエットが誕生した。女性は長い袖と裾のものをはおる形できものを着ていた。これは、今の和服の原形だと言える。
『続日本紀』によると、719年に行った政策に記述の中に、「初令天下百姓右襟」という文がある。「初令天下百姓右襟」の意味は、すべての人々は衿のあわせ方を右衽(うじん)にしなさい、という意味である。すなわち、エリは左前から右前のような形になってきた。言い換えれば、アケクビからタレクビ②に変わってきた。
日本で和服をなぜ右前にするのか、またいつから右前にするようになったのかについては、諸説がある。時期については、『続日本紀』(しょくにほんぎ)によると、719年に、全ての人が右前に着るという命令が発せられた。一説によると、昔、武士が刀を腰に固定させて携帯していたことと、多くの日本人の利き手が右手だった、という2つのことが最初の原因であるという。現在の日本で右手が利き手の人が多いことは事実である。右利きの武士は、右手で刀を抜きやすいように、腰の左側に刀をさす。いざ戦闘が始まり、刀をさやから抜こうとするとき、もし和服を左前(右前の逆)に着ていた場合、抜こうとした刀が右の衽と胸の間に入ってしまい、刀が引っかかってしまうことがある。抜こうとした刀が服に引っかからないように、和服を右前に着るようになったのだという。左前にして着たために、抜こうとした刀が服に引っかかり、すばやく刀を抜いた敵に殺される可能性も十分考えられる。このような説があるわけだが、この右前にする理由から、左前から死が連想されるようになったのではないかという説もあり、また、このことは死者を葬るときに着せる和服は左
前にするという風習と無関係ではないという説もある。
しかし、この命令が発せたのは、唐に学んだ時である。だから、右前の理由は唐の服装は右前であるので、「初令天下百姓右襟」という命令を公布したと思う。これから見ると、日本に影響を与えたのは、唐時代の文化だけではなく、人々の美意識も影響された。言い換えれば、唐時代の人々の美意識と奈良後期の日本人の美意識とはある程度に同じであると認められる。これに基づいて、奈良時代の日本人は唐時代の服装を真似した。
特に、和服の襟ぐりへこむ設計からみえる。この設計は、首の肌のきめ細くて柔らかさと細長さを表すことができる。それと同時に、日本人は首に対する特有の感じを表われる。だから、美意識は和服に凝縮されることも言えよう。 しかし、この似ていた美意識は唐の強く盛んでいることに基づいた。言い換えれば、もし唐は当時の東洋の一番強国ではなかったら、日本人は決して唐の服装を真似しなかったと思う。そして、このまねは奈良後期生産力の進歩に基づいた。経済が発展し、余裕があるというわけで、美に追求することができる。奈良後期の美意識はこれに基づいて現れた。
このように、奈良時代に、前期と後期によって、人々の美意識は二つの段階に割ることができる。前期は素朴で、後期はちょっと華麗の方に変わった。しかし、全体からというと、奈良時代の美意識はやはり素朴なものである。これは、奈良時代の服装の様式から見える。
2.2平安時代
平安時代に、菅原道真により遣唐使が発されると、国風文化③が盛んになった。つまり、平安時代も日本の国風時代といえる。今の服装は同じように漸く外来の影響を解放して、ある贅沢な美と精緻の特色を成育し出す。たとえば、服装
以上の表から見ると、日本の和服は唐時代の服装のゆったりした袖が受け続いたことがわかった。 “寛”の容量はかなり大きい。服飾は広ければ広いほど、人間の体は抽象になる。そうすれば、ただ具体的な体躯を隠しただけではなく、人間の性格も隠した。視覚から見る深さの認識上に、人間の視線は一ヵ所の比較的な小さい地域に集中すると、焦点以外のものはぼんやりしている。また、ゆったりしている服装は人間の視覚焦点を引きつけやすい。なぜなら、もし周囲のイメージはあいまいになったら、人間のイメージは高くて大きくなったからである。いわゆる、国は小さければ小さいほど、人々は負けず嫌いという考え方がある。だから、ゆったりした服装を通して、自分雄大なイメージを表現する。
さて、現在、平安時代の庶民の衣服についてはよく分かっていない。ただ庶民は質素なきものに細い帯を締めた姿であったことだけわかった。それゆえ、ここに研究していないつもりである。が、周知の通り、平安時代に、貴族に女子は十二単④を着用していた。たとえいくつの袿は同時に着ているときとしても、表衣の色もぼうっと見える。そこで、ぼんやりしている美観を人に与えられる。それと同時に、十二単の衣はきちんと着ているので、ある規律の美を形成した。これから見ると、日本人の美意識はわずかにわかる。すなわち、抽象的な美も好きだし、本当で緻密に自然世界の美観を繁栄されることも好きである。
2.3江戸時代
江戸時代になると、一層簡略化され、肩衣と袴とを組み合わせた裃が用いられた。庶民の文化として小袖が大流行した。歌舞伎などの芝居が流行し、錦絵と浮世絵で役者の服装が紹介されると、庶民の装いはさらに絢爛豪華なものとなった。これに対して幕府は、儒教的価値観から倹約令にて度々規制しようとしたが、庶民の服飾への情熱は収まらず、茶の湯の影響もあって、見た目は地味だが、実は金のかかっているものを好むようになった。
この時代に、帯結びや組みひもが発達し、帯を後ろで結ぶようになった。和服を体に結わえ付ける道具から、やっと帯が装飾的にも重要な位置を占めることになった。つまり、帯がなければ、端正な和の美になくてはならない。
最初の帯は細長いものを腰の前で結んだ。桃山時代以後、前で結ぶようになった。なぜなら、そうすれば、ファッションだと考えているからである。江戸初期に、帯は幅二寸五分、現在の腰紐をちょっと太くしたようなものを腰に結んでいた。結び方にも決まりではなく、前後左右好きなところに結んで垂らし
ていた。江戸中期になってようやく、歌舞伎の流行により、女性が女らしさを強調するために幅の広い帯を背中で絞めるスタイルを考えた。その優雅な姿があつという間に町の女性に広がり、柄や結びのパリエーションが考案されて、現在の帯の原形ができ上がる。
元禄年間になると、日本人は余裕があったので、帯の幅が五六寸になった。そして、帯の裏を入れた。したがって、結びも大きくなってきた。もし、前でそのような大きい結びがあったら、仕事もしにくいし、視線も妨害している。また、総体の美も破壊した。それゆえ、後ろで帯を結ぶようになった。ところで、もっと美しくなるために、結び方を研究し続けている。今、結び方は約287種類がある。たとえば、お太鼓結び、立て矢結びなどがある。“…このような女として、こぼれんばかりの高島田にゆいあげ、匂うがごとぎ振袖姿で、眼を伏せ、膝をそろえ、つつましやかに指をそらせて茶をすすめているのだ。そのとき、空間に突き出た立て矢結びの帯は言わんかたなく艶に、ふしぎな魅力をおびてくるのである。…”(『服装の歴史Ⅱ.キモノの時代』)この例を通して、日本人は帯に対する好きな感じを見えかたくない。帯を結んでいる女は、女らしいと思っている。また、お太鼓帯の結び目は、からだを壁に見立てた織物の展示会であって、人々はその加工品の美しさだけに見入るのである。だから空想は全く自由である。もしも重さに耐えられたら、人間のからだの何十倍の高さにでも装飾をつみ重ねることができる。ただ、支点が生きている人間だから、耐えられる範囲内で空想をおさえているにすぎない。
このように、次のことがわかった。和服の帯は江戸時代初期までに幅10cm程度の細い物であった。紐が使われることもあった。ところが、平和な時代が長期に渡り、また華美を競う風潮と相まって、女性の帯は時代が下がるごとに長大化が進んだ。つまり、帯にも日本人の美意識を凝縮していると言える。もちろん、この変化は、日本の経済の状況にも関係がある。この点は、江戸後期の鎖国政策により、庶民は木綿製もしくは麻などの衣服を着用したから見える。ここで、詳しく説明しないつもりである。
2.4戦後
2.4.1 昭和 1945年の終戦後
第二次世界大戦が終わった1945年以降の女性たちは、空襲がなくなったので、所持していたが着られなかった和服を着るようになった。
しかし、和服が高価であり着付けがわずらわしいことなどが原因となったか、安価で実用的な洋服の流行にはかなわず、徐々に和服を普段着とする人の割合は少なくなっていった。ただし、1965年から1975年頃までは、和服を普段着として着る女性を見かけることが多かった。その頃に和服の人気を押し上げ、流行させたのはウールで仕立てられたウール着物である。ウール着物は色彩が美しく、カジュアルで気軽に着られる普段着の和服として日本中の女性の間で流行となった。しかし、その後も和服ではなく洋服を着る人の割合が増え、呉服業界⑤は不振に追い込まれた。呉服業界が、販売促進の目的で、種々の場面で必要とされる和服の条件というような約束事を作って宣伝した。この結果、庶民は「和服は難しい」というイメージをより強く持つようになった。この結果、呉服業界はさらに不振になり、反物など織物生産を担う業界の倒産が相次いだ。
1960年代までは自宅での日常着として和服を着る男性も多くいたが(1970年代までの漫画での描写からも伺える)、次第に姿を消していった。 1960年代の欧米の文化人やロックミュージシャンの間では、東洋的な思想や宗教が流行したことがあり、中には着物(あるいは着物に似せてデザインした服)を着る者も見られた。ロックギタリストのジミ・ヘンドリックスなどが代表例。
2.4.2 平成
女性には「ギャル浴衣」などが登場し、女性にはファッションとしての和服が一定の浸透を見せている。特に浴衣は様々な色が登場し、デパートなどは開放的な水着ファッションと、隠して魅せる浴衣という二本柱で夏の商戦を仕掛けている。ファッションとしての浴衣は一部の男性にも着られているが、女性ほど一般的なものではなく、作務衣・甚平が一部の男性に普段着として親しまれているほかは、日常的に和服を着る男性はほとんど見かけなくなっている。 このように、現在、日本人は普段洋服を着ているが、和服はほとんど着ていないことが分かった。なぜなら、和服は美しくないと思っているではなくて、きると不便だと思っている。
一方、大切な儀式に、日本人は相変わらず和服を着ている。現在の女性用の正装の和服の基本はワンピース型であるが、女性用の袴は女学生の和服の正装の一部とされる。明治・大正時代に、学校で日常的に着る服として多くの女学生が女性用の袴を好んで着用し、女学生の袴姿が流行したことが、日本の文化
として定着した。そのため、現在でも入学式・卒業式などの学校の儀式で袴を正装の一部として好んで着用する女学生がいる。現在の女性用の正装の和服には、黒留袖、色留袖、振袖、訪問着、喪服などがある。黒留袖・色留袖・振袖・訪問着のいずれにも絵羽模様(えばもよう)がある。小さなパターンが反復された模様ではなく、和服全体をキャンバスに見立てて絵を描いたような模様が絵羽模様である。絵羽模様は、裁ち目のところで模様がつながっている。裁ち目のところで模様がつながっていないと、それは絵羽模様ではない。黒留袖・色留袖・振袖・訪問着は、基本的におめでたい儀式で着用される。留袖には、黒留袖と色留袖がある。黒留袖は、既婚女性用の正装である。色留袖は未婚、既婚、共に着られる。
場合によって、魅力を現れるために、違う和服を着ている。これと美意識とは、密接な関係があるだと思っている。言い換えれば、美意識があれば、さまざまな和服を選択し、着ている。
Ⅲ.結論
以上のように、時代によって、和服が変化したことが明らかになった。素朴な様式から豪華になって、また、素朴に戻った。そして、大切な儀式で着る服装になっている。しかし、普段着慣れていないにもかかわらず、民族衣裳としての和服が生きてきた歴史は、晴れの場に立つ若い女性に、少なくとも近世以降の伝統美の格調を加え、その装いに身を委ねてあることの満足と安らぎをあたら与えてくれるからである。
確かに、時代によって、和服が変化してきた。全般から見れば、各時代の変化は三つのことと関係がある。一番目は、強国に学ぶことである。すなわち、奈良·平安時代に唐時代に学ぶこととか、明治時代に、西洋の資本主義国家に学ぶことである。ただ制度のみに影響されていたではなく、美意識にも影響されていた。これは、和服は唐時代の服装と似ているから見える。また、明治維新以後、洋服を着始めているも見える。二番目は、日本当時代の経済状況、つまり、日本人は余裕があるかどうかということである。これは、当時代日本人の服装から見える。貧乏なとき、素朴な服を着ていた。そして、余裕があるとき、豪華な服を着ている。全般的に、経済は美意識に深く影響されると思っている。そして、一方から見ると、強国に学ばなかったとしたら、経済状況とは密接な関係がある。もし、強国に学ばなかったら、経済が発展しなかった。
また、日本の和服の魅力は、女体の美しさをあらわに示すものではない。女体を包むことによって、体の形の優しさを、風情として匂わすところに魅力がある。また、女が和服に執着するのに、たぶん貪婪な欲望からばかりではなく、和服が女の優しさを最も美しい形に表すことの可能な魔術的な衣服であったからなのである。“…私は今でも鮮やかに、初めて幅広の帯を、お太鼓に結んだ日の感銘を忘れはしない。…”(『きもの随想』)とも書く、やんわりと身を締める幅広帯の感覚は、不思議な束縛感の快さと、三尺帯を結び下だげているときとはまるで違った裾さばきの重厚さに、和服であることの実感がずしりと心にしみてくる思いであった。
女だけではなく、男もこれが好きだと考えている。女らしさは和服の変化の中にひとつの変えないものである。言い換えれば、女らしさも美意識に影響されている。これは三番目のことである。
このように、日本人の美意識は大体明らかになった。抽象的な美も好きだし、本当で緻密に自然世界の美観を繁栄されることも好きである。また、女らしさを現れることも好きである。
ここで、和服と美意識との関係については研究していた。しかし、ただ一方面だけ研究しているので、まだ不十分ではないと思われる。足りない部分は今後に、ほかの視点から研究していきたいのである。
注
①
②貫頭衣とは、ただ一枚の布の中央にちかいところに穴をあけて首を通したものだ。 からタレクビを「からころも」と呼び、「から」に唐の字を当てたのは、奈良·平安朝時代の日
とう
本人が唐「当時の中国の名」の文明を賛美していたため、美化する意味でやった。 ③9世紀末に遣唐使が停止されたが、この頃から10世紀の初め頃にかけて日本独自の文化が 発展した。中国の影響が強かった奈良時代の文化(唐風)に対して、これを国風文化と呼 んでいる。現在まで続く日本の文化の中にも、この流れを汲むものが多い。唐風の文化を 踏まえながらも、日本の風土や生活感情にあった文化である。
④
⑤十二単とは、単の上に袿を重ね、その上に唐衣と裳をつける服装のことである。 呉服業界とは、和服・反物の生産・販売の産業のこと。
和服から見られる日本人の美意識
Ⅰ.序論
各民族は自分の民族服がある。大和民族も例外ではなく、和服は大和民族の伝統的な衣服として、世界でも有名である。また、日本女性の美しさを表している。その古典的な優雅と東洋的な気風が日本にだけでなく、世界の人々にも魅了される。
和服は、日本人の“第二の皮膚”、“日本人のこころ”を表していることができる。そして、和服には、日本の風土や日本人の美意識が凝縮され、作られる時代の文化も反映されて奥深い魅力に溢れている。
その上、時代によって、いろいろな和服がある。たとえば、以前の古代から奈良時代にかけての貫頭衣、平安時代の十二単、江戸時代に小袖が流行した。 村上信彦が『服装の歴史』の中で、時代によって、女の生活と服装の関係を研究している。村上は服装を理解した上で、この本を書かれた。また、“女の服装は、悩み、苦しみ、ゆがめられ、さらにそこから脱け出ようとしている女の生活の鏡である。”と認めていた。しかし、どうして女の和服は時代によって、変化してきたのか。また、この変化と日本人の美意識とはどのような関係があるのか。これについての研究はまだ十分ではない。
本稿では、和服と美意識との関係を研究したい。特に、女の和服という方面から見た日本人の美意識、また、これに対して分析する。
以下は、女の和服の変化を取り上げ、美意識との関係を分析したい。
Ⅱ.本論
2.1奈良時代
令義解、令集義解、『日本紀略』などの書物と、正倉院などに現在残っている資料から見ると、この時代の衣服は少し分かっている。
奈良前期に、日本人は前の時代と同じ、貫頭衣①のような服を着ていた。貫頭衣の構造がじつに簡単で原始的なところから、これが日本のいちばんふるい服装だということになっている。それゆえ、この貫頭衣はただ人々の基本的な需要を満たすために、作られたものである。言い換えれば、この時の服は人々に
素朴な感じを与えるだけである。どうして、奈良時代の日本人は貫頭衣のようなものを着ていたのか。これは、奈良前期は生産力は低下だからであった。人々はただ日常生活の需要を満たすために、働いていた。だから、服装に対する需要がそんなに高くなかった。それで、奈良時代の日本人はただ衣服の基本的な三つの機能(保護、保温、活動性)に基づいて、貫頭衣のような服を着ていたと思う。しかし、それだけではなく、もうひとつの理由は、きっと当時の日本人はこのような衣服の様式が好きだから、着ていたと思う。しかも、この好きという感じは、美意識に基づいて生じてきたわけである。つまり、たとえこのような古い衣服としても、日本人の原始的な美意識に満ちあふれる。
奈良時代は中国の唐時代の盛期に当たる。遣唐使により中国の文化が輸入された。また、中日交流が日々に頻繁になっていたにしたがって、奈良時代の服装は唐時代の服装に深い影響を与えられた。それなので、奈良後期に、ゆったりしたシルエットが誕生した。女性は長い袖と裾のものをはおる形できものを着ていた。これは、今の和服の原形だと言える。
『続日本紀』によると、719年に行った政策に記述の中に、「初令天下百姓右襟」という文がある。「初令天下百姓右襟」の意味は、すべての人々は衿のあわせ方を右衽(うじん)にしなさい、という意味である。すなわち、エリは左前から右前のような形になってきた。言い換えれば、アケクビからタレクビ②に変わってきた。
日本で和服をなぜ右前にするのか、またいつから右前にするようになったのかについては、諸説がある。時期については、『続日本紀』(しょくにほんぎ)によると、719年に、全ての人が右前に着るという命令が発せられた。一説によると、昔、武士が刀を腰に固定させて携帯していたことと、多くの日本人の利き手が右手だった、という2つのことが最初の原因であるという。現在の日本で右手が利き手の人が多いことは事実である。右利きの武士は、右手で刀を抜きやすいように、腰の左側に刀をさす。いざ戦闘が始まり、刀をさやから抜こうとするとき、もし和服を左前(右前の逆)に着ていた場合、抜こうとした刀が右の衽と胸の間に入ってしまい、刀が引っかかってしまうことがある。抜こうとした刀が服に引っかからないように、和服を右前に着るようになったのだという。左前にして着たために、抜こうとした刀が服に引っかかり、すばやく刀を抜いた敵に殺される可能性も十分考えられる。このような説があるわけだが、この右前にする理由から、左前から死が連想されるようになったのではないかという説もあり、また、このことは死者を葬るときに着せる和服は左
前にするという風習と無関係ではないという説もある。
しかし、この命令が発せたのは、唐に学んだ時である。だから、右前の理由は唐の服装は右前であるので、「初令天下百姓右襟」という命令を公布したと思う。これから見ると、日本に影響を与えたのは、唐時代の文化だけではなく、人々の美意識も影響された。言い換えれば、唐時代の人々の美意識と奈良後期の日本人の美意識とはある程度に同じであると認められる。これに基づいて、奈良時代の日本人は唐時代の服装を真似した。
特に、和服の襟ぐりへこむ設計からみえる。この設計は、首の肌のきめ細くて柔らかさと細長さを表すことができる。それと同時に、日本人は首に対する特有の感じを表われる。だから、美意識は和服に凝縮されることも言えよう。 しかし、この似ていた美意識は唐の強く盛んでいることに基づいた。言い換えれば、もし唐は当時の東洋の一番強国ではなかったら、日本人は決して唐の服装を真似しなかったと思う。そして、このまねは奈良後期生産力の進歩に基づいた。経済が発展し、余裕があるというわけで、美に追求することができる。奈良後期の美意識はこれに基づいて現れた。
このように、奈良時代に、前期と後期によって、人々の美意識は二つの段階に割ることができる。前期は素朴で、後期はちょっと華麗の方に変わった。しかし、全体からというと、奈良時代の美意識はやはり素朴なものである。これは、奈良時代の服装の様式から見える。
2.2平安時代
平安時代に、菅原道真により遣唐使が発されると、国風文化③が盛んになった。つまり、平安時代も日本の国風時代といえる。今の服装は同じように漸く外来の影響を解放して、ある贅沢な美と精緻の特色を成育し出す。たとえば、服装
以上の表から見ると、日本の和服は唐時代の服装のゆったりした袖が受け続いたことがわかった。 “寛”の容量はかなり大きい。服飾は広ければ広いほど、人間の体は抽象になる。そうすれば、ただ具体的な体躯を隠しただけではなく、人間の性格も隠した。視覚から見る深さの認識上に、人間の視線は一ヵ所の比較的な小さい地域に集中すると、焦点以外のものはぼんやりしている。また、ゆったりしている服装は人間の視覚焦点を引きつけやすい。なぜなら、もし周囲のイメージはあいまいになったら、人間のイメージは高くて大きくなったからである。いわゆる、国は小さければ小さいほど、人々は負けず嫌いという考え方がある。だから、ゆったりした服装を通して、自分雄大なイメージを表現する。
さて、現在、平安時代の庶民の衣服についてはよく分かっていない。ただ庶民は質素なきものに細い帯を締めた姿であったことだけわかった。それゆえ、ここに研究していないつもりである。が、周知の通り、平安時代に、貴族に女子は十二単④を着用していた。たとえいくつの袿は同時に着ているときとしても、表衣の色もぼうっと見える。そこで、ぼんやりしている美観を人に与えられる。それと同時に、十二単の衣はきちんと着ているので、ある規律の美を形成した。これから見ると、日本人の美意識はわずかにわかる。すなわち、抽象的な美も好きだし、本当で緻密に自然世界の美観を繁栄されることも好きである。
2.3江戸時代
江戸時代になると、一層簡略化され、肩衣と袴とを組み合わせた裃が用いられた。庶民の文化として小袖が大流行した。歌舞伎などの芝居が流行し、錦絵と浮世絵で役者の服装が紹介されると、庶民の装いはさらに絢爛豪華なものとなった。これに対して幕府は、儒教的価値観から倹約令にて度々規制しようとしたが、庶民の服飾への情熱は収まらず、茶の湯の影響もあって、見た目は地味だが、実は金のかかっているものを好むようになった。
この時代に、帯結びや組みひもが発達し、帯を後ろで結ぶようになった。和服を体に結わえ付ける道具から、やっと帯が装飾的にも重要な位置を占めることになった。つまり、帯がなければ、端正な和の美になくてはならない。
最初の帯は細長いものを腰の前で結んだ。桃山時代以後、前で結ぶようになった。なぜなら、そうすれば、ファッションだと考えているからである。江戸初期に、帯は幅二寸五分、現在の腰紐をちょっと太くしたようなものを腰に結んでいた。結び方にも決まりではなく、前後左右好きなところに結んで垂らし
ていた。江戸中期になってようやく、歌舞伎の流行により、女性が女らしさを強調するために幅の広い帯を背中で絞めるスタイルを考えた。その優雅な姿があつという間に町の女性に広がり、柄や結びのパリエーションが考案されて、現在の帯の原形ができ上がる。
元禄年間になると、日本人は余裕があったので、帯の幅が五六寸になった。そして、帯の裏を入れた。したがって、結びも大きくなってきた。もし、前でそのような大きい結びがあったら、仕事もしにくいし、視線も妨害している。また、総体の美も破壊した。それゆえ、後ろで帯を結ぶようになった。ところで、もっと美しくなるために、結び方を研究し続けている。今、結び方は約287種類がある。たとえば、お太鼓結び、立て矢結びなどがある。“…このような女として、こぼれんばかりの高島田にゆいあげ、匂うがごとぎ振袖姿で、眼を伏せ、膝をそろえ、つつましやかに指をそらせて茶をすすめているのだ。そのとき、空間に突き出た立て矢結びの帯は言わんかたなく艶に、ふしぎな魅力をおびてくるのである。…”(『服装の歴史Ⅱ.キモノの時代』)この例を通して、日本人は帯に対する好きな感じを見えかたくない。帯を結んでいる女は、女らしいと思っている。また、お太鼓帯の結び目は、からだを壁に見立てた織物の展示会であって、人々はその加工品の美しさだけに見入るのである。だから空想は全く自由である。もしも重さに耐えられたら、人間のからだの何十倍の高さにでも装飾をつみ重ねることができる。ただ、支点が生きている人間だから、耐えられる範囲内で空想をおさえているにすぎない。
このように、次のことがわかった。和服の帯は江戸時代初期までに幅10cm程度の細い物であった。紐が使われることもあった。ところが、平和な時代が長期に渡り、また華美を競う風潮と相まって、女性の帯は時代が下がるごとに長大化が進んだ。つまり、帯にも日本人の美意識を凝縮していると言える。もちろん、この変化は、日本の経済の状況にも関係がある。この点は、江戸後期の鎖国政策により、庶民は木綿製もしくは麻などの衣服を着用したから見える。ここで、詳しく説明しないつもりである。
2.4戦後
2.4.1 昭和 1945年の終戦後
第二次世界大戦が終わった1945年以降の女性たちは、空襲がなくなったので、所持していたが着られなかった和服を着るようになった。
しかし、和服が高価であり着付けがわずらわしいことなどが原因となったか、安価で実用的な洋服の流行にはかなわず、徐々に和服を普段着とする人の割合は少なくなっていった。ただし、1965年から1975年頃までは、和服を普段着として着る女性を見かけることが多かった。その頃に和服の人気を押し上げ、流行させたのはウールで仕立てられたウール着物である。ウール着物は色彩が美しく、カジュアルで気軽に着られる普段着の和服として日本中の女性の間で流行となった。しかし、その後も和服ではなく洋服を着る人の割合が増え、呉服業界⑤は不振に追い込まれた。呉服業界が、販売促進の目的で、種々の場面で必要とされる和服の条件というような約束事を作って宣伝した。この結果、庶民は「和服は難しい」というイメージをより強く持つようになった。この結果、呉服業界はさらに不振になり、反物など織物生産を担う業界の倒産が相次いだ。
1960年代までは自宅での日常着として和服を着る男性も多くいたが(1970年代までの漫画での描写からも伺える)、次第に姿を消していった。 1960年代の欧米の文化人やロックミュージシャンの間では、東洋的な思想や宗教が流行したことがあり、中には着物(あるいは着物に似せてデザインした服)を着る者も見られた。ロックギタリストのジミ・ヘンドリックスなどが代表例。
2.4.2 平成
女性には「ギャル浴衣」などが登場し、女性にはファッションとしての和服が一定の浸透を見せている。特に浴衣は様々な色が登場し、デパートなどは開放的な水着ファッションと、隠して魅せる浴衣という二本柱で夏の商戦を仕掛けている。ファッションとしての浴衣は一部の男性にも着られているが、女性ほど一般的なものではなく、作務衣・甚平が一部の男性に普段着として親しまれているほかは、日常的に和服を着る男性はほとんど見かけなくなっている。 このように、現在、日本人は普段洋服を着ているが、和服はほとんど着ていないことが分かった。なぜなら、和服は美しくないと思っているではなくて、きると不便だと思っている。
一方、大切な儀式に、日本人は相変わらず和服を着ている。現在の女性用の正装の和服の基本はワンピース型であるが、女性用の袴は女学生の和服の正装の一部とされる。明治・大正時代に、学校で日常的に着る服として多くの女学生が女性用の袴を好んで着用し、女学生の袴姿が流行したことが、日本の文化
として定着した。そのため、現在でも入学式・卒業式などの学校の儀式で袴を正装の一部として好んで着用する女学生がいる。現在の女性用の正装の和服には、黒留袖、色留袖、振袖、訪問着、喪服などがある。黒留袖・色留袖・振袖・訪問着のいずれにも絵羽模様(えばもよう)がある。小さなパターンが反復された模様ではなく、和服全体をキャンバスに見立てて絵を描いたような模様が絵羽模様である。絵羽模様は、裁ち目のところで模様がつながっている。裁ち目のところで模様がつながっていないと、それは絵羽模様ではない。黒留袖・色留袖・振袖・訪問着は、基本的におめでたい儀式で着用される。留袖には、黒留袖と色留袖がある。黒留袖は、既婚女性用の正装である。色留袖は未婚、既婚、共に着られる。
場合によって、魅力を現れるために、違う和服を着ている。これと美意識とは、密接な関係があるだと思っている。言い換えれば、美意識があれば、さまざまな和服を選択し、着ている。
Ⅲ.結論
以上のように、時代によって、和服が変化したことが明らかになった。素朴な様式から豪華になって、また、素朴に戻った。そして、大切な儀式で着る服装になっている。しかし、普段着慣れていないにもかかわらず、民族衣裳としての和服が生きてきた歴史は、晴れの場に立つ若い女性に、少なくとも近世以降の伝統美の格調を加え、その装いに身を委ねてあることの満足と安らぎをあたら与えてくれるからである。
確かに、時代によって、和服が変化してきた。全般から見れば、各時代の変化は三つのことと関係がある。一番目は、強国に学ぶことである。すなわち、奈良·平安時代に唐時代に学ぶこととか、明治時代に、西洋の資本主義国家に学ぶことである。ただ制度のみに影響されていたではなく、美意識にも影響されていた。これは、和服は唐時代の服装と似ているから見える。また、明治維新以後、洋服を着始めているも見える。二番目は、日本当時代の経済状況、つまり、日本人は余裕があるかどうかということである。これは、当時代日本人の服装から見える。貧乏なとき、素朴な服を着ていた。そして、余裕があるとき、豪華な服を着ている。全般的に、経済は美意識に深く影響されると思っている。そして、一方から見ると、強国に学ばなかったとしたら、経済状況とは密接な関係がある。もし、強国に学ばなかったら、経済が発展しなかった。
また、日本の和服の魅力は、女体の美しさをあらわに示すものではない。女体を包むことによって、体の形の優しさを、風情として匂わすところに魅力がある。また、女が和服に執着するのに、たぶん貪婪な欲望からばかりではなく、和服が女の優しさを最も美しい形に表すことの可能な魔術的な衣服であったからなのである。“…私は今でも鮮やかに、初めて幅広の帯を、お太鼓に結んだ日の感銘を忘れはしない。…”(『きもの随想』)とも書く、やんわりと身を締める幅広帯の感覚は、不思議な束縛感の快さと、三尺帯を結び下だげているときとはまるで違った裾さばきの重厚さに、和服であることの実感がずしりと心にしみてくる思いであった。
女だけではなく、男もこれが好きだと考えている。女らしさは和服の変化の中にひとつの変えないものである。言い換えれば、女らしさも美意識に影響されている。これは三番目のことである。
このように、日本人の美意識は大体明らかになった。抽象的な美も好きだし、本当で緻密に自然世界の美観を繁栄されることも好きである。また、女らしさを現れることも好きである。
ここで、和服と美意識との関係については研究していた。しかし、ただ一方面だけ研究しているので、まだ不十分ではないと思われる。足りない部分は今後に、ほかの視点から研究していきたいのである。
注
①
②貫頭衣とは、ただ一枚の布の中央にちかいところに穴をあけて首を通したものだ。 からタレクビを「からころも」と呼び、「から」に唐の字を当てたのは、奈良·平安朝時代の日
とう
本人が唐「当時の中国の名」の文明を賛美していたため、美化する意味でやった。 ③9世紀末に遣唐使が停止されたが、この頃から10世紀の初め頃にかけて日本独自の文化が 発展した。中国の影響が強かった奈良時代の文化(唐風)に対して、これを国風文化と呼 んでいる。現在まで続く日本の文化の中にも、この流れを汲むものが多い。唐風の文化を 踏まえながらも、日本の風土や生活感情にあった文化である。
④
⑤十二単とは、単の上に袿を重ね、その上に唐衣と裳をつける服装のことである。 呉服業界とは、和服・反物の生産・販売の産業のこと。