047-1三角贸易

三角貿易-1

イギリス→インド:綿製品 インド→中国:アヘン 中国→イギリス:茶という貿易関係です。

もともとは、重商主義と言うのは、国家の力はその保有する正貨(当時は概ね銀、銀貨)で決まるものであり、それをより多く獲得するというための、保護貿易主義でした。その期的に赤字状態が続いた場合、それを是正するために第三国を取り入れることで行われる貿易のことです。 イギリスの対中貿易

イギリスの東インド会社は18世紀後半に、対中貿易をほぼ独占し、莫大な利益をあげていました。

ところが、1780年代からイギリスで紅茶を飲む習慣が爆発

インドとイギリスの綿花貿易

インドは木綿の原産地といわれ、綿布は古くからインドの主要輸出品であり、ヴァスコ・ダ・ガマに始まるヨーロッパ人来航後も変わらなかった。

インド綿布はルネサンス時代にヨーロッパにもたらされたが、効率をよくするための植民地獲得だったわけです。ところが清との関係では、イギリスは清に輸出すべき有力な物産が無く、一方中国産の茶はイギリスにとっては必須と言ってよい輸入品でした。このイギリス側の一方的な輸入超過が続くことは、イギリスからの正貨の流出を起こすものでしたので、麻薬であるあゆえにヨーロッパでは合法的に生産できないアヘンをインドで生産し、これを中国に輸出したわけです。その交易でインドに集まる中国の正貨は、綿織物のイギリスからインドへの輸出を通じてイギリスに回収される仕組みでした。

つまりインドを触媒として、茶貿易によるイギリスの輸入超過を、アヘン貿易による輸出超過に転換するための貿易であったわけです。

三角貿易-2

三角貿易とは

三角貿易は、二国間で行われていた貿易のどちらかが長

的に広まり、国民的飲料になっていきます。

この時代以降、イギリスは中国から多くの茶葉を輸入する必要が生まれ、購入の対価であるイギリス国内の銀が、急速に中国国内に流入するようになりました。

イギリスは、中国との二国間貿易で、大幅な赤字貿易をせざるを得ない状況になったのです。 産業革命とインド

一方、イギリスでは18世紀以降、産業革命という大きな転換点を迎えます。様々な技術革新により、社会構造が劇的に変化しました。

この産業革命は、安価な機械製綿織物の大量生産を可能にし、インドに大量の機械製綿織物が流入しました。これにより、インドの伝統的な綿織物産業は壊滅状態になりました。1820年以降、インドは綿織物の輸出国から綿織物の輸入・原料

アヘンの密輸

同じ時期、イギリスは中国にも安価な機械製綿織物を輸出しようと試みました。ところが当時の中国では農村家内工業の綿織物産業が成立していて、同じく安価な製品を生産していました。

また、中国は貿易港を広州の一港に制限していたため、思

うように貿易が伸びません。

こうした中、イギリスは、インド産の麻薬、アヘンの密貿易を開始したのです。

こうした状況から、イギリスからインドに綿織物、インドから中国にアヘンと綿花、中国からイギリスに茶葉という三角貿易が成立したのです。

その軽さ、手触りの柔らかさ、あたたかさ、染めやすさなどによって爆発的な人気をよび、17世紀以後インドに進出したイギリス東インド会社はこの貿易によって莫大な利潤を得た。カリカット港から輸出された綿布は特に良質で、この積出港の名がなまってキャラコとよばれた。 キャリコ織機

この綿織物を国内で安く大量に作りたいという動機が、イギリスの発明家ジョン・ケイの飛び杼にはじまる技術革新を促し、産業革命の興起を招くこととなる。しかし、このことはインドの手工業者の職を奪い、腕利きの職人が大量に失業した。

1. インド会社のインド産綿布の輸入=綿布人気 ヨーロッパのアジア貿易

16世紀・・・胡椒や香料が主要な貿易品 17世紀半ば以降・・・インド産綿布が中心

イギリスでも「キャラコ熱」と呼ばれる綿布人気で、インドからの綿布輸入が増大。イギリスの輸入品の中でキャラコは66.4%を占めた(1677年)

2. イギリス国内産業への圧迫→キャラコ輸入禁止法 インド産綿布の価格は、イギリス産毛織物の価格の3分の1程度で、その輸入はイギリス国内の毛織物工業の脅威となった。輸入制限を主張するイギリス国内産業の圧力により、1700年には、染色されたキャラコの輸入を禁止する法律(キャラコ輸入禁止法)が成立した。

3.キャラコ輸入禁止法=インド綿製品の輸入抑制+インドからの綿花輸入の促進

キャラコの輸入は続き、綿布の需要は弱まることなく続い

いった。1760年代から始まるイギリスの産業革命(木綿工業の機械生産)は、こうした長期にわたる綿布人気を背景としておこった。産業革命とは、キャラコの国産化をめざした技術革新だった。

ヨーロッパへのインド産綿布の大量輸入 ↓↓↓↓↓↓

安価で質の良いインド綿布は「キャラコ熱」と呼ばれる大衆的な綿布人気を引き起こし、長期的に続いた ↓↓↓↓↓↓

巨大な需要→技術革新でインド綿布で対抗・圧倒すれば、大もうけです ↓↓↓↓↓↓

そのためにインド綿製品の輸入抑制し、綿製品ではなく綿花のインドから輸入を拡大して国内綿工業の育成 ↓↓↓↓↓↓

産業革命→大量生産による安価な英国綿布のインドへの逆輸出→インドの綿手工業の崩壊 ↓↓↓↓↓↓

原料供給地・製品市場としての植民地としてのインドから英国は「甘美な莫大な富」を吸い上げた

イギリスでは、産業革命以前、羊毛製品の製造が盛んでした。 しかし18世紀になるとイギリスの織物製造の中心がウールからコットンに変わっていきます。そのきっかけを与えたのはインドでした。17世紀から18世紀頃、イギリスはインドから、お茶や綿布を輸入していました。その輸入品のなかに手織りの綿織物もありましたが、これがイギリスで大ブームとなりました。着心地がよく軽くて、柄もきれいだったため、一気に普及したのです。あまりにブームになりすぎて、イギリス本来の羊毛製品が売れなくなるほどでした。それに脅威を感じた羊毛業者がインド綿布の輸入禁止を政府に働きかけ、禁止措置をとりました。ところが、一度インド綿布のよさを知ってしまったイ

ギリス人は、輸入ができないなら自分たちでつくろうと立ち上がります。それが、綿製品の大量生産をもたらす産業革命のきっかけになったと言われています。

水野忠邦

江戸後期,天保の改革を断行した老中。忠光の次男,母は側室中川恂。幼名は於菟五郎。式部尐輔,和泉守,左近将監,越前守。文化9(1812)年唐津藩主。12年奏者番,14年寺社奉行兼任となり,同時に経済的には不利益な浜松へ所替えとなった。これは幕府重職就任を熱望した忠邦が,唐津藩は長崎警備の任務があり老中になれないため,幕府の実力者水野忠成に猛烈な運動をして実現した。その後も忠成の庅護で,大坂城代,京都所司代と順調に昇進し,文政11(1828)年西丸老中,天保5(1834)年本丸老中,10年に老中首座に登り詰めた。この間,藩財政は極度に窮乏し,代金未払いのため江戸藩邸の用達商人から出入りを断られたほどであった。そのため,大坂で不正無尽を企てたり,金座御金改め役後藤三右衛門から多額の賄賂を受け取るなど,忠成のあとを継ぐ金権腐敗の政治家とみられ,世評は芳しくなかった。 幕政の実権を握っていた大御所徳川家斉の信任厚い御側御用取次水野忠篤らの側近を,12年家斉が亡くなるや,迅速果断に一掃し,将軍徳川家慶の厚い信任を受け天保の改革を断行した。内憂外患の深刻な危機の打開をめざし,奢侈一掃と質素倹約を強調,特に都市に厳しい統制を実施,株仲間解散,人返し,異国船打ち払い令を撤回した薪水給与令,上知令,印旛沼工事,御料所改革,貨幣改革,日光社参などを断行。あまりに急激な改革で,大名,旗本から農民,町人まであらゆる階層の利害と衝突し,14年閏9月罷免された。異例にも翌年6月老中に再任されたが,他の老中の強い抵抗と将軍の信任を得られず,木偶のようだと評されつつ,弘化2(1845)年再辞職。在職中に賄賂を受け取ったことなどを咎められ,2万石没収,隠居謹慎。子の忠精も出羽山形への所替えの処罰を受け,下屋敷で謹慎の生活を送る。厳格な改革政治家と金権腐敗の政治家の両方の顔を持つ老中であった。北島正元『水野忠邦』

天保の改革

天保年間には全国的な凶作による米価・物価高騰や天保の大

飢饉、百姓一揆や都市への下層民流入による打ち壊しが起こっており、天保7年(1836年)には甲斐国における天保騒動や三河加茂一揆、翌天保8年には大坂での大塩平八郎の乱などの国内事情に加え、阿片戦争やモリソン号事件など対外的事件も含め、幕政を揺るがす事件が発生していた。

天保8年(1837年)、将軍徳川家斉は西丸で退隠し大御所となり、家慶が将軍職となる。老中首座の水野忠邦[1]は天保9年には農村復興を目的とした人返令や奢侈禁止を諮問しているが、大奥や若年寄の林忠英、水野忠篤、美濃部茂育ら西丸派(家斉の寵臣たち)による反対を受け、水戸藩主徳川斉昭による後援も得たが、幕政改革は抵抗を受けていた。

天保12年(1841年)に大御所家斉が死去し、水野忠邦は林・水野忠篤・美濃部ら西丸派や大奥に対する粛清を行い人材を刷新し、重農主義を基本とした天保の改革が開始される。同年5月15日に将軍徳川家慶は享保・寛政の改革の趣意に基づく幕政改革の上意を伝え、水野は幕府各所に綱紀粛正と奢侈禁止を命じた。改革は江戸町奉行の遠山景元・矢部定謙を通じて江戸市中にも布告され、華美な祭礼や贅沢・奢侈はことごとく禁止される。なお、大奥については姉小路ら数人の大奥女中に抵抗され、改革の対象外とされた。

遠山・矢部両名は厳格な統制に対して上申書を提出し、見直しを進言するが、水野は奢侈禁止を徹底し、同年に矢部が失脚すると後任の町奉行には忠邦腹心の目付鳥居耀蔵[2]が着任す

といわれる享保の改革・寛政の改革・天保の改革に次ぐ改革とる。鳥居は物価高騰の沈静化を図るため、問屋仲間の解散や店頭・小売価格の統制や公定賃金を定め、没落旗本や御家人向け

に低利貸付や累積貸付金の棄捐(返済免除)、貨幣改鋳をおこなった。これら一連の政策は流通経済の混乱を招いて、不況が蔓延することとなった。

天保の改革はこうした失敗に見舞われたものの、水野は代官

出自の勘定方を登用した幕府財政基盤の確立に着手しており、

天保14年には人返令が実施されたほか、新田開発・水運航路の

開発を目的とした下総国の印旛沼開拓や幕領改革、上知令を開

始する。印旛沼開発は改革以前から調査が行われており、庄内藩や西丸派の失脚した林忠英が藩主である貝渕藩ら4藩主に対して御手伝普請が命じられ、鳥居も勘定奉行として携わり、開拓事業が開始される。また、幕府直轄領に対して同一基準で検地を実施し、上知令を実施して幕領の一円支配を目指した[3]。上知令の実施は大名・旗本や領民双方からの強い反対があり、老中土井利位や紀州徳川家からも反対意見が噴出したため中止され、天保14年閏9月14日に水野は老中職を罷免されて失脚し、諸改革は中止された[4]。

天保の改革に先立って、薩摩藩や長州藩などの西国雄藩や水戸藩などを中心に藩財政改革を中心とした藩政改革が実施された結果、諸藩は自律的藩財政を運営するに至っており、天保の改革における上知令などは幕府と諸藩経済との間に対立を生んだことも指摘される。

安政の改革

嘉永6年(1853年)にアメリカ東インド艦隊司令官ペリーが来航して一気に政局が混乱した際、江戸幕府の老中首座・阿部正弘が主導して行なった幕政改革のことである。幕府三大改革

いわれる。

幕政改革の理由

第11代将軍・徳川家斉の数多い子供たちの養子縁組、娘の婚儀等による出費に加え、家斉自身の浪費もあって、江戸時代後期における幕府財政は悪化の一途をたどっていた。家斉の死後、

第12代将軍・徳川家慶のもとで老中首座となった水野忠邦は天

保の改革を行なって幕府財政の再建、海防の強化等に務めたが、

上知令の不評から改革は失敗に終わった。

水野失脚後、老中首座となった阿部正弘は、ペリー来航前か

らすでに幕政改革の必要性を悟り、弘化年間に入ると次々と改

革を実施していた。これは、イギリス・アメリカ・ロシア等の

外国船が次々と日本近海を脅かしていたことが理由として挙げ

られ、阿部は幕府の権力を高める為に行なったのである。

ペリー来航前に行なわれた改革

 江戸の守備を強化する為、品川や浦賀等に砲台を建築。

軍事訓練の為、空砲という条件で鉄砲の訓練、並びに実弾

で砲術訓練を諸藩に許可。

嘉永4年(1851年)、南町奉行遠山景元に命じて株仲間を再興。又、同年に景元・寺社奉行脇坂安宅・勘定奉行池田頼方に命じて恩赦に関する公式な法令(赦律)を制定することを命じた。

薩摩藩の御家騒動(お由羅騒動)に介入し、島津斉興を隠

居させて開明派と評されていた島津斉彬を藩主とする。

徳川斉昭の謹慎を解除し、幕政に参与させる等、実力のある外様大名の幕政参与を積極的に認める等(安政の改革以前から、阿部は既に島津斉彬・鍋島直正・伊達宗城等と交流を持ち、意見を交わしていた)。

安政の改革

嘉永6年(1853年)6月のペリー来航の際、阿部は国家の一大事として親藩・譜代・外様を問わずに諸大名をはじめ、

旗本さらには庶民にも意見を求める。直後に第12代将軍・

徳川家慶が病死し、徳川家定が第13代将軍になると、家

定が病弱だったことも手伝って阿部は幕政の総責任者と

なり、安政の改革を断行する。

嘉永7年(1854年)1月にペリーが再来航し、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に対して大船建造の解禁し海防

の強化を命じる。また人材の育成や、国家としての軍事及

び外交研究機関として講武所、蕃書調所、長崎海軍伝習所

を設置した。また江川英龍、岩瀬忠震、勝海舟、大久保忠

寛、永井尚志の人材を海防掛(海岸防禦御用掛)へ登用し、

幕閣に対する諮問機関としての役割を持たせていた。

安政2年(1855年)10月、阿部は老中首座の地位を堀田正睦に譲る。但しこれは幕府内部における開国派と鎖国派の争いで阿部が孤立することを恐れての処置であり、尚も実権は阿部にあり、改革は続行された。この頃から第14

代の将軍継嗣問題も表面化し、阿部は人物・識見等から一橋派を支持。

安政4年(1857年)6月、阿部は病死する。

その後

正弘の死後、老中首座であった堀田正睦は通商条約交渉において孝明天皇の勅許を得ようとしたが失敗。同時に将軍継嗣問題においても阿部同様に一橋派を推し、徳川慶喜を将軍に、松平慶永を大老に推挙して事態の打開を図ったが、井伊直弼が大奥の支持を受けて大老に就任したことからこれも失敗し、第14代将軍は南紀派が推挙する徳川慶福(徳川家茂)が就任した。堀田は条約問題・将軍継嗣問題の失敗により失脚し、井伊直弼が幕政を主導することになる。その井伊は阿部・堀田によって行なわれた安政の改革路線を否定し、幕府の権威強化の為に一橋派をはじめとした阿部が登用した人材を安政の大獄においてことごとく幕政の中枢部から追い落とし、かえって幕府人材の枯渇化を招いただけでなく、阿部時代に幕府に好意的だった外様大名の敵意をかえってむき出しにする結果となった。その為桜田門外の変で井伊が暗殺されると、幕府保守派は鳴りを潜めて阿部が登用した人材は復活して幕末の動乱期において幕府を支えていくことになる。然し井伊の死後、幕府には阿部・堀田のような指導者が現れることがなく、結果としてそれが滅亡の遠因へと向かっていくことになるのである。

結果・影響

安政の改革で最も重要なのは、阿部正弘が行なった慣習にとらわれずに能力主義を第一にして行なった人材登用である。阿部が登用した人材は阿部の死後も幕府を支える原動力となり、更には明治時代においても新政府と日本を支

える活躍を見せている。

阿部がそれまで幕政に発言力が無かった外様大名に対して広く意見を求めたことは、彼らの政治に対する介入を招いたことは事実だが、すでに幕府には阿部や堀田などの一部を除いて親藩・譜代層は人材が枯渇状態にあった。この為、阿部の協調路線がかえって幕府権力の弱体化を招いたことは事実だが、そうでもしなければ幕府も対処できない状態にあったといえる。むしろ、阿部が早世したことのほうが改革頓挫、さらにはその後の幕政混乱を招いたといえ

る。

親藩

江戸時代の藩の分類の一つで、徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩を指す。特に、徳川姓を名乗った御三家・御三卿の当主は家康の男系男子・子孫に限られ、将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った。その他の家は松平姓を名乗った。上記以外に、徳川家光、徳川綱吉の正室の実家鷹司家の出身である鷹司松平家も親藩とされる。また、家康の女系男子・子孫奥平松平家や家康の異父弟・子孫である久松松平家(伊予国松山藩主と、伊勢国桑名藩主の系統)も親藩に準じて扱われることもある。なお、狭義の親藩には御三家・御三卿は含まれない。

以下の御三家は、家康の男系男子・子孫であり、親藩の中でもさらに別格の扱いだった。

 徳川義直を祖とする尾張徳川家  徳川頼宣を祖とする紀州徳川家 

徳川頼房を祖とする水戸徳川家

もし徳川将軍家に男系男子(将軍継嗣)がなければ、この三家が将軍を出すように決められていた。また、徳川姓を名乗ること(他の一門は松平姓)や、三つ葉葵の家紋の使用などが許されていた。ただし、当初は水戸は入っておらず、将軍家・尾張家・紀州家をもって御三家と称した。8代将軍徳川吉宗と14代将軍徳川家茂は紀州藩主から、15代将軍徳川慶喜は水戸徳川家の血統であるが一橋家当主から将軍に就任した。

吉宗の時代以降にさらに御三卿が設けられた。御三卿は「将軍の家族」として扱われた。

 徳川宗武を祖とする田安徳川家(徳川吉宗の代に創設)  徳川宗尹を祖とする一橋徳川家(徳川吉宗の代に創設) 

徳川重好を祖とする清水徳川家(徳川家重の代に創設)

15代将軍は一橋家当主から将軍に就任した。将軍の後継を補う他に、御三家のうち尾張藩主と紀州藩主の養子となって当主を継承した者も複数出ている。将軍家や御三家の後継補完のため、御三家はたびたび空位の時期が存在した。

譜代大名(ふだいだいみょう)

江戸時代の大名の出自による分類の一つである。もともと「譜第(譜代)の臣」と言うように、数代にわたり主家に仕え(譜第/譜代)、家政にも関わってきた家臣のことをさす。主家との君臣関係が強く、主家滅亡時に離反すると、世間から激しく非難されることが多かった。

譜代大名のはじまりは徳川家康が豊臣政権のもとで関東地方に移封された際に、主要な譜代の武将に城地を与えて大名格を与えて徳川氏を支える藩屏としたことに由来する。それに対してそれ以外の家臣は徳川氏の直轄軍に編成されて後の旗本や御家人の元となった。 譜代大名の定義

1. 徳川将軍家により取り立てられた大名のうち、親藩及

び、外様大名と、その支藩(分家)を除いたものを

指す。

2. 関ヶ原の戦い以前より、徳川氏に臣従して取り立てら

れた大名を指す。

3. 幕府の要職に就任する資格のある大名を指す。 大岡氏(大岡忠相、大岡忠光)のように旗本が加増されて大名となった場合や、陪臣出身の堀田氏・稲葉氏・柳沢氏・摂津有馬氏有馬氏倫系のように、幕府によって新たに取り立てられ大

名になった場合は1の定義にあてはまり、譜代大名となる。一

方で外様大名家からの分家や、立花宗茂・新庄直頼のように、

一度改易された外様大名が再興した場合は外様となる。家康の

男系子孫の建てた家は基本的に親藩とされ、譜代とは呼ばれな

かった。

会津松平家や鷹司松平家のように譜代大名に定義されるべき家柄であっても、徳川家との血縁を耂慮されて親藩となることもある。一方で、蜂須賀斉裕のように将軍の実子が養子となっても外様のままの場合もある。御三家、御三卿の庶子を譜代大名が養子としても親藩にはならないが、親藩待遇となることがあった。 狭義の徳川家譜代

狭義の徳川家譜代は、代々松平家に仕えた家や、家康に取り立てられた家を指す。これらの家は臣従した時期をさらに細分化して、「安祥譜代」「岡崎譜代」「駿河譜代」などと称されている。

特に最古参の安祥譜代は伺候席で厚遇され、ひとたび取り潰さ

れても、またすぐに何らかの形で家名が再興されることが非常

に多かった。ただし、安祥譜代出身でも石川家の康長・康勝は

数正が出奔し豊臣家に仕えた後に関ヶ原の合戦で東軍についた

という経歴のため、外様大名とされた。

外様大名(とざまだいみょう)

いわゆる譜代大名に対して、関ヶ原の戦い前後に新しく徳川

氏の支配体系に組み込まれた大名を指す。「外様」は、もともと

は主家と緩い主従関係を持った家臣を指す語で、既に室町時代

に用例が見られるものである。外様大名は主家の家政にはかか

わらず、軍事動員などにだけ応じる場合が多かった。またこの

外様の家臣は主家滅亡時に主家から離反しても非難されることはなかった。

外様大名には大領を治める大名も多いが、基本的に江戸を中心とする関東や京・大坂・東海道沿いなどの戦略的な要地の近くには置かれなかった。江戸初期には幕府に警戒され些細な不備を咎められ改易される大名も多かった。

外様大名は一般に老中などの幕閣の要職には就けないとされていたが、対馬国の宗氏は伝統的に朝鮮との外交に重きを成し、また江戸後期になると松前氏のように要職へ就く外様大名も現れた。また、藤堂氏は徳川氏の先鋒とされ軍事的には譜代筆頭の井伊氏と同格であり、池田輝政は親藩と同格とされ大坂の陣の総大将を勤める予定だったといわれる。

また、同じ外様大名でも比較的早い時期から徳川家と友好関係があった池田氏・黒田氏・細川氏などと関ヶ原の戦い後に臣従した毛利氏・島津氏・上杉氏などでは扱いが違ったとの説もある。

三角貿易-1

イギリス→インド:綿製品 インド→中国:アヘン 中国→イギリス:茶という貿易関係です。

もともとは、重商主義と言うのは、国家の力はその保有する正貨(当時は概ね銀、銀貨)で決まるものであり、それをより多く獲得するというための、保護貿易主義でした。その期的に赤字状態が続いた場合、それを是正するために第三国を取り入れることで行われる貿易のことです。 イギリスの対中貿易

イギリスの東インド会社は18世紀後半に、対中貿易をほぼ独占し、莫大な利益をあげていました。

ところが、1780年代からイギリスで紅茶を飲む習慣が爆発

インドとイギリスの綿花貿易

インドは木綿の原産地といわれ、綿布は古くからインドの主要輸出品であり、ヴァスコ・ダ・ガマに始まるヨーロッパ人来航後も変わらなかった。

インド綿布はルネサンス時代にヨーロッパにもたらされたが、効率をよくするための植民地獲得だったわけです。ところが清との関係では、イギリスは清に輸出すべき有力な物産が無く、一方中国産の茶はイギリスにとっては必須と言ってよい輸入品でした。このイギリス側の一方的な輸入超過が続くことは、イギリスからの正貨の流出を起こすものでしたので、麻薬であるあゆえにヨーロッパでは合法的に生産できないアヘンをインドで生産し、これを中国に輸出したわけです。その交易でインドに集まる中国の正貨は、綿織物のイギリスからインドへの輸出を通じてイギリスに回収される仕組みでした。

つまりインドを触媒として、茶貿易によるイギリスの輸入超過を、アヘン貿易による輸出超過に転換するための貿易であったわけです。

三角貿易-2

三角貿易とは

三角貿易は、二国間で行われていた貿易のどちらかが長

的に広まり、国民的飲料になっていきます。

この時代以降、イギリスは中国から多くの茶葉を輸入する必要が生まれ、購入の対価であるイギリス国内の銀が、急速に中国国内に流入するようになりました。

イギリスは、中国との二国間貿易で、大幅な赤字貿易をせざるを得ない状況になったのです。 産業革命とインド

一方、イギリスでは18世紀以降、産業革命という大きな転換点を迎えます。様々な技術革新により、社会構造が劇的に変化しました。

この産業革命は、安価な機械製綿織物の大量生産を可能にし、インドに大量の機械製綿織物が流入しました。これにより、インドの伝統的な綿織物産業は壊滅状態になりました。1820年以降、インドは綿織物の輸出国から綿織物の輸入・原料

アヘンの密輸

同じ時期、イギリスは中国にも安価な機械製綿織物を輸出しようと試みました。ところが当時の中国では農村家内工業の綿織物産業が成立していて、同じく安価な製品を生産していました。

また、中国は貿易港を広州の一港に制限していたため、思

うように貿易が伸びません。

こうした中、イギリスは、インド産の麻薬、アヘンの密貿易を開始したのです。

こうした状況から、イギリスからインドに綿織物、インドから中国にアヘンと綿花、中国からイギリスに茶葉という三角貿易が成立したのです。

その軽さ、手触りの柔らかさ、あたたかさ、染めやすさなどによって爆発的な人気をよび、17世紀以後インドに進出したイギリス東インド会社はこの貿易によって莫大な利潤を得た。カリカット港から輸出された綿布は特に良質で、この積出港の名がなまってキャラコとよばれた。 キャリコ織機

この綿織物を国内で安く大量に作りたいという動機が、イギリスの発明家ジョン・ケイの飛び杼にはじまる技術革新を促し、産業革命の興起を招くこととなる。しかし、このことはインドの手工業者の職を奪い、腕利きの職人が大量に失業した。

1. インド会社のインド産綿布の輸入=綿布人気 ヨーロッパのアジア貿易

16世紀・・・胡椒や香料が主要な貿易品 17世紀半ば以降・・・インド産綿布が中心

イギリスでも「キャラコ熱」と呼ばれる綿布人気で、インドからの綿布輸入が増大。イギリスの輸入品の中でキャラコは66.4%を占めた(1677年)

2. イギリス国内産業への圧迫→キャラコ輸入禁止法 インド産綿布の価格は、イギリス産毛織物の価格の3分の1程度で、その輸入はイギリス国内の毛織物工業の脅威となった。輸入制限を主張するイギリス国内産業の圧力により、1700年には、染色されたキャラコの輸入を禁止する法律(キャラコ輸入禁止法)が成立した。

3.キャラコ輸入禁止法=インド綿製品の輸入抑制+インドからの綿花輸入の促進

キャラコの輸入は続き、綿布の需要は弱まることなく続い

いった。1760年代から始まるイギリスの産業革命(木綿工業の機械生産)は、こうした長期にわたる綿布人気を背景としておこった。産業革命とは、キャラコの国産化をめざした技術革新だった。

ヨーロッパへのインド産綿布の大量輸入 ↓↓↓↓↓↓

安価で質の良いインド綿布は「キャラコ熱」と呼ばれる大衆的な綿布人気を引き起こし、長期的に続いた ↓↓↓↓↓↓

巨大な需要→技術革新でインド綿布で対抗・圧倒すれば、大もうけです ↓↓↓↓↓↓

そのためにインド綿製品の輸入抑制し、綿製品ではなく綿花のインドから輸入を拡大して国内綿工業の育成 ↓↓↓↓↓↓

産業革命→大量生産による安価な英国綿布のインドへの逆輸出→インドの綿手工業の崩壊 ↓↓↓↓↓↓

原料供給地・製品市場としての植民地としてのインドから英国は「甘美な莫大な富」を吸い上げた

イギリスでは、産業革命以前、羊毛製品の製造が盛んでした。 しかし18世紀になるとイギリスの織物製造の中心がウールからコットンに変わっていきます。そのきっかけを与えたのはインドでした。17世紀から18世紀頃、イギリスはインドから、お茶や綿布を輸入していました。その輸入品のなかに手織りの綿織物もありましたが、これがイギリスで大ブームとなりました。着心地がよく軽くて、柄もきれいだったため、一気に普及したのです。あまりにブームになりすぎて、イギリス本来の羊毛製品が売れなくなるほどでした。それに脅威を感じた羊毛業者がインド綿布の輸入禁止を政府に働きかけ、禁止措置をとりました。ところが、一度インド綿布のよさを知ってしまったイ

ギリス人は、輸入ができないなら自分たちでつくろうと立ち上がります。それが、綿製品の大量生産をもたらす産業革命のきっかけになったと言われています。

水野忠邦

江戸後期,天保の改革を断行した老中。忠光の次男,母は側室中川恂。幼名は於菟五郎。式部尐輔,和泉守,左近将監,越前守。文化9(1812)年唐津藩主。12年奏者番,14年寺社奉行兼任となり,同時に経済的には不利益な浜松へ所替えとなった。これは幕府重職就任を熱望した忠邦が,唐津藩は長崎警備の任務があり老中になれないため,幕府の実力者水野忠成に猛烈な運動をして実現した。その後も忠成の庅護で,大坂城代,京都所司代と順調に昇進し,文政11(1828)年西丸老中,天保5(1834)年本丸老中,10年に老中首座に登り詰めた。この間,藩財政は極度に窮乏し,代金未払いのため江戸藩邸の用達商人から出入りを断られたほどであった。そのため,大坂で不正無尽を企てたり,金座御金改め役後藤三右衛門から多額の賄賂を受け取るなど,忠成のあとを継ぐ金権腐敗の政治家とみられ,世評は芳しくなかった。 幕政の実権を握っていた大御所徳川家斉の信任厚い御側御用取次水野忠篤らの側近を,12年家斉が亡くなるや,迅速果断に一掃し,将軍徳川家慶の厚い信任を受け天保の改革を断行した。内憂外患の深刻な危機の打開をめざし,奢侈一掃と質素倹約を強調,特に都市に厳しい統制を実施,株仲間解散,人返し,異国船打ち払い令を撤回した薪水給与令,上知令,印旛沼工事,御料所改革,貨幣改革,日光社参などを断行。あまりに急激な改革で,大名,旗本から農民,町人まであらゆる階層の利害と衝突し,14年閏9月罷免された。異例にも翌年6月老中に再任されたが,他の老中の強い抵抗と将軍の信任を得られず,木偶のようだと評されつつ,弘化2(1845)年再辞職。在職中に賄賂を受け取ったことなどを咎められ,2万石没収,隠居謹慎。子の忠精も出羽山形への所替えの処罰を受け,下屋敷で謹慎の生活を送る。厳格な改革政治家と金権腐敗の政治家の両方の顔を持つ老中であった。北島正元『水野忠邦』

天保の改革

天保年間には全国的な凶作による米価・物価高騰や天保の大

飢饉、百姓一揆や都市への下層民流入による打ち壊しが起こっており、天保7年(1836年)には甲斐国における天保騒動や三河加茂一揆、翌天保8年には大坂での大塩平八郎の乱などの国内事情に加え、阿片戦争やモリソン号事件など対外的事件も含め、幕政を揺るがす事件が発生していた。

天保8年(1837年)、将軍徳川家斉は西丸で退隠し大御所となり、家慶が将軍職となる。老中首座の水野忠邦[1]は天保9年には農村復興を目的とした人返令や奢侈禁止を諮問しているが、大奥や若年寄の林忠英、水野忠篤、美濃部茂育ら西丸派(家斉の寵臣たち)による反対を受け、水戸藩主徳川斉昭による後援も得たが、幕政改革は抵抗を受けていた。

天保12年(1841年)に大御所家斉が死去し、水野忠邦は林・水野忠篤・美濃部ら西丸派や大奥に対する粛清を行い人材を刷新し、重農主義を基本とした天保の改革が開始される。同年5月15日に将軍徳川家慶は享保・寛政の改革の趣意に基づく幕政改革の上意を伝え、水野は幕府各所に綱紀粛正と奢侈禁止を命じた。改革は江戸町奉行の遠山景元・矢部定謙を通じて江戸市中にも布告され、華美な祭礼や贅沢・奢侈はことごとく禁止される。なお、大奥については姉小路ら数人の大奥女中に抵抗され、改革の対象外とされた。

遠山・矢部両名は厳格な統制に対して上申書を提出し、見直しを進言するが、水野は奢侈禁止を徹底し、同年に矢部が失脚すると後任の町奉行には忠邦腹心の目付鳥居耀蔵[2]が着任す

といわれる享保の改革・寛政の改革・天保の改革に次ぐ改革とる。鳥居は物価高騰の沈静化を図るため、問屋仲間の解散や店頭・小売価格の統制や公定賃金を定め、没落旗本や御家人向け

に低利貸付や累積貸付金の棄捐(返済免除)、貨幣改鋳をおこなった。これら一連の政策は流通経済の混乱を招いて、不況が蔓延することとなった。

天保の改革はこうした失敗に見舞われたものの、水野は代官

出自の勘定方を登用した幕府財政基盤の確立に着手しており、

天保14年には人返令が実施されたほか、新田開発・水運航路の

開発を目的とした下総国の印旛沼開拓や幕領改革、上知令を開

始する。印旛沼開発は改革以前から調査が行われており、庄内藩や西丸派の失脚した林忠英が藩主である貝渕藩ら4藩主に対して御手伝普請が命じられ、鳥居も勘定奉行として携わり、開拓事業が開始される。また、幕府直轄領に対して同一基準で検地を実施し、上知令を実施して幕領の一円支配を目指した[3]。上知令の実施は大名・旗本や領民双方からの強い反対があり、老中土井利位や紀州徳川家からも反対意見が噴出したため中止され、天保14年閏9月14日に水野は老中職を罷免されて失脚し、諸改革は中止された[4]。

天保の改革に先立って、薩摩藩や長州藩などの西国雄藩や水戸藩などを中心に藩財政改革を中心とした藩政改革が実施された結果、諸藩は自律的藩財政を運営するに至っており、天保の改革における上知令などは幕府と諸藩経済との間に対立を生んだことも指摘される。

安政の改革

嘉永6年(1853年)にアメリカ東インド艦隊司令官ペリーが来航して一気に政局が混乱した際、江戸幕府の老中首座・阿部正弘が主導して行なった幕政改革のことである。幕府三大改革

いわれる。

幕政改革の理由

第11代将軍・徳川家斉の数多い子供たちの養子縁組、娘の婚儀等による出費に加え、家斉自身の浪費もあって、江戸時代後期における幕府財政は悪化の一途をたどっていた。家斉の死後、

第12代将軍・徳川家慶のもとで老中首座となった水野忠邦は天

保の改革を行なって幕府財政の再建、海防の強化等に務めたが、

上知令の不評から改革は失敗に終わった。

水野失脚後、老中首座となった阿部正弘は、ペリー来航前か

らすでに幕政改革の必要性を悟り、弘化年間に入ると次々と改

革を実施していた。これは、イギリス・アメリカ・ロシア等の

外国船が次々と日本近海を脅かしていたことが理由として挙げ

られ、阿部は幕府の権力を高める為に行なったのである。

ペリー来航前に行なわれた改革

 江戸の守備を強化する為、品川や浦賀等に砲台を建築。

軍事訓練の為、空砲という条件で鉄砲の訓練、並びに実弾

で砲術訓練を諸藩に許可。

嘉永4年(1851年)、南町奉行遠山景元に命じて株仲間を再興。又、同年に景元・寺社奉行脇坂安宅・勘定奉行池田頼方に命じて恩赦に関する公式な法令(赦律)を制定することを命じた。

薩摩藩の御家騒動(お由羅騒動)に介入し、島津斉興を隠

居させて開明派と評されていた島津斉彬を藩主とする。

徳川斉昭の謹慎を解除し、幕政に参与させる等、実力のある外様大名の幕政参与を積極的に認める等(安政の改革以前から、阿部は既に島津斉彬・鍋島直正・伊達宗城等と交流を持ち、意見を交わしていた)。

安政の改革

嘉永6年(1853年)6月のペリー来航の際、阿部は国家の一大事として親藩・譜代・外様を問わずに諸大名をはじめ、

旗本さらには庶民にも意見を求める。直後に第12代将軍・

徳川家慶が病死し、徳川家定が第13代将軍になると、家

定が病弱だったことも手伝って阿部は幕政の総責任者と

なり、安政の改革を断行する。

嘉永7年(1854年)1月にペリーが再来航し、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に対して大船建造の解禁し海防

の強化を命じる。また人材の育成や、国家としての軍事及

び外交研究機関として講武所、蕃書調所、長崎海軍伝習所

を設置した。また江川英龍、岩瀬忠震、勝海舟、大久保忠

寛、永井尚志の人材を海防掛(海岸防禦御用掛)へ登用し、

幕閣に対する諮問機関としての役割を持たせていた。

安政2年(1855年)10月、阿部は老中首座の地位を堀田正睦に譲る。但しこれは幕府内部における開国派と鎖国派の争いで阿部が孤立することを恐れての処置であり、尚も実権は阿部にあり、改革は続行された。この頃から第14

代の将軍継嗣問題も表面化し、阿部は人物・識見等から一橋派を支持。

安政4年(1857年)6月、阿部は病死する。

その後

正弘の死後、老中首座であった堀田正睦は通商条約交渉において孝明天皇の勅許を得ようとしたが失敗。同時に将軍継嗣問題においても阿部同様に一橋派を推し、徳川慶喜を将軍に、松平慶永を大老に推挙して事態の打開を図ったが、井伊直弼が大奥の支持を受けて大老に就任したことからこれも失敗し、第14代将軍は南紀派が推挙する徳川慶福(徳川家茂)が就任した。堀田は条約問題・将軍継嗣問題の失敗により失脚し、井伊直弼が幕政を主導することになる。その井伊は阿部・堀田によって行なわれた安政の改革路線を否定し、幕府の権威強化の為に一橋派をはじめとした阿部が登用した人材を安政の大獄においてことごとく幕政の中枢部から追い落とし、かえって幕府人材の枯渇化を招いただけでなく、阿部時代に幕府に好意的だった外様大名の敵意をかえってむき出しにする結果となった。その為桜田門外の変で井伊が暗殺されると、幕府保守派は鳴りを潜めて阿部が登用した人材は復活して幕末の動乱期において幕府を支えていくことになる。然し井伊の死後、幕府には阿部・堀田のような指導者が現れることがなく、結果としてそれが滅亡の遠因へと向かっていくことになるのである。

結果・影響

安政の改革で最も重要なのは、阿部正弘が行なった慣習にとらわれずに能力主義を第一にして行なった人材登用である。阿部が登用した人材は阿部の死後も幕府を支える原動力となり、更には明治時代においても新政府と日本を支

える活躍を見せている。

阿部がそれまで幕政に発言力が無かった外様大名に対して広く意見を求めたことは、彼らの政治に対する介入を招いたことは事実だが、すでに幕府には阿部や堀田などの一部を除いて親藩・譜代層は人材が枯渇状態にあった。この為、阿部の協調路線がかえって幕府権力の弱体化を招いたことは事実だが、そうでもしなければ幕府も対処できない状態にあったといえる。むしろ、阿部が早世したことのほうが改革頓挫、さらにはその後の幕政混乱を招いたといえ

る。

親藩

江戸時代の藩の分類の一つで、徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩を指す。特に、徳川姓を名乗った御三家・御三卿の当主は家康の男系男子・子孫に限られ、将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った。その他の家は松平姓を名乗った。上記以外に、徳川家光、徳川綱吉の正室の実家鷹司家の出身である鷹司松平家も親藩とされる。また、家康の女系男子・子孫奥平松平家や家康の異父弟・子孫である久松松平家(伊予国松山藩主と、伊勢国桑名藩主の系統)も親藩に準じて扱われることもある。なお、狭義の親藩には御三家・御三卿は含まれない。

以下の御三家は、家康の男系男子・子孫であり、親藩の中でもさらに別格の扱いだった。

 徳川義直を祖とする尾張徳川家  徳川頼宣を祖とする紀州徳川家 

徳川頼房を祖とする水戸徳川家

もし徳川将軍家に男系男子(将軍継嗣)がなければ、この三家が将軍を出すように決められていた。また、徳川姓を名乗ること(他の一門は松平姓)や、三つ葉葵の家紋の使用などが許されていた。ただし、当初は水戸は入っておらず、将軍家・尾張家・紀州家をもって御三家と称した。8代将軍徳川吉宗と14代将軍徳川家茂は紀州藩主から、15代将軍徳川慶喜は水戸徳川家の血統であるが一橋家当主から将軍に就任した。

吉宗の時代以降にさらに御三卿が設けられた。御三卿は「将軍の家族」として扱われた。

 徳川宗武を祖とする田安徳川家(徳川吉宗の代に創設)  徳川宗尹を祖とする一橋徳川家(徳川吉宗の代に創設) 

徳川重好を祖とする清水徳川家(徳川家重の代に創設)

15代将軍は一橋家当主から将軍に就任した。将軍の後継を補う他に、御三家のうち尾張藩主と紀州藩主の養子となって当主を継承した者も複数出ている。将軍家や御三家の後継補完のため、御三家はたびたび空位の時期が存在した。

譜代大名(ふだいだいみょう)

江戸時代の大名の出自による分類の一つである。もともと「譜第(譜代)の臣」と言うように、数代にわたり主家に仕え(譜第/譜代)、家政にも関わってきた家臣のことをさす。主家との君臣関係が強く、主家滅亡時に離反すると、世間から激しく非難されることが多かった。

譜代大名のはじまりは徳川家康が豊臣政権のもとで関東地方に移封された際に、主要な譜代の武将に城地を与えて大名格を与えて徳川氏を支える藩屏としたことに由来する。それに対してそれ以外の家臣は徳川氏の直轄軍に編成されて後の旗本や御家人の元となった。 譜代大名の定義

1. 徳川将軍家により取り立てられた大名のうち、親藩及

び、外様大名と、その支藩(分家)を除いたものを

指す。

2. 関ヶ原の戦い以前より、徳川氏に臣従して取り立てら

れた大名を指す。

3. 幕府の要職に就任する資格のある大名を指す。 大岡氏(大岡忠相、大岡忠光)のように旗本が加増されて大名となった場合や、陪臣出身の堀田氏・稲葉氏・柳沢氏・摂津有馬氏有馬氏倫系のように、幕府によって新たに取り立てられ大

名になった場合は1の定義にあてはまり、譜代大名となる。一

方で外様大名家からの分家や、立花宗茂・新庄直頼のように、

一度改易された外様大名が再興した場合は外様となる。家康の

男系子孫の建てた家は基本的に親藩とされ、譜代とは呼ばれな

かった。

会津松平家や鷹司松平家のように譜代大名に定義されるべき家柄であっても、徳川家との血縁を耂慮されて親藩となることもある。一方で、蜂須賀斉裕のように将軍の実子が養子となっても外様のままの場合もある。御三家、御三卿の庶子を譜代大名が養子としても親藩にはならないが、親藩待遇となることがあった。 狭義の徳川家譜代

狭義の徳川家譜代は、代々松平家に仕えた家や、家康に取り立てられた家を指す。これらの家は臣従した時期をさらに細分化して、「安祥譜代」「岡崎譜代」「駿河譜代」などと称されている。

特に最古参の安祥譜代は伺候席で厚遇され、ひとたび取り潰さ

れても、またすぐに何らかの形で家名が再興されることが非常

に多かった。ただし、安祥譜代出身でも石川家の康長・康勝は

数正が出奔し豊臣家に仕えた後に関ヶ原の合戦で東軍についた

という経歴のため、外様大名とされた。

外様大名(とざまだいみょう)

いわゆる譜代大名に対して、関ヶ原の戦い前後に新しく徳川

氏の支配体系に組み込まれた大名を指す。「外様」は、もともと

は主家と緩い主従関係を持った家臣を指す語で、既に室町時代

に用例が見られるものである。外様大名は主家の家政にはかか

わらず、軍事動員などにだけ応じる場合が多かった。またこの

外様の家臣は主家滅亡時に主家から離反しても非難されることはなかった。

外様大名には大領を治める大名も多いが、基本的に江戸を中心とする関東や京・大坂・東海道沿いなどの戦略的な要地の近くには置かれなかった。江戸初期には幕府に警戒され些細な不備を咎められ改易される大名も多かった。

外様大名は一般に老中などの幕閣の要職には就けないとされていたが、対馬国の宗氏は伝統的に朝鮮との外交に重きを成し、また江戸後期になると松前氏のように要職へ就く外様大名も現れた。また、藤堂氏は徳川氏の先鋒とされ軍事的には譜代筆頭の井伊氏と同格であり、池田輝政は親藩と同格とされ大坂の陣の総大将を勤める予定だったといわれる。

また、同じ外様大名でも比較的早い時期から徳川家と友好関係があった池田氏・黒田氏・細川氏などと関ヶ原の戦い後に臣従した毛利氏・島津氏・上杉氏などでは扱いが違ったとの説もある。


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