旧石器时代の文化

旧石器時代の文化/縄文文化のノート

○旧石器時代の文化

・更新世の時代、打製石器(握槌、細石器)・骨角器の使用

狩猟・採集生活、土器使用なし、一定範囲の移動

・日本列島と大陸は陸続き

・相沢忠洋が石器発掘→岩宿遺跡、化石人骨(浜北人・港川人など)の発見

・代表遺跡…岩宿遺跡・野尻湖底遺跡、早水台遺跡

○縄文文化

・完新世→温暖化→列島は大陸と分離、樹林帯・生息動物・生活の変化

・磨製石器(石斧・石鏃・石匙・石皿)、骨角器(釣針・銛・鏃)の登場

石錘・土錘、丸木舟の使用

・縄文土器…黒褐色・厚手、低温で焼く、もろい。6期区分

・竪穴住居、貝塚

・アニミズム、土偶・石棒、屈葬、抜歯

・交易を示すもの…黒曜石(和田峠、白滝、神津島など)

ひすい(姫川・糸魚川)・サヌカイト(二上山)

・代表遺跡…三内丸山遺跡、上野原遺跡、加曽利貝塚、大森貝塚など

┃文章

旧石器時代は更新世{こうしんせい}の時代で、地球上に広く氷河が発達した時代である。そして、打製石器・骨角器{こっかくき}は使用したが、土器の製作や家畜の飼育は知らず、狩猟{しゅりょう}・漁労{ぎょろう}・採集生活をしていた時代である。氷期の頃、日本列島と大陸は陸続きで、北からマンモスやヘラジカ、南からナウマン象やオオツノジカ、ステゴドン象などが日本列島に来た。

なお、旧石器時代の由来は、1819年にデンマークのトムセンが人類文化を石器・青銅器・鉄器に分け、イギリスのラボックが石器時代を新・旧の2段階に分けたものである。新石器時代は完新世{かんしんせい}<注1>で、磨製{ませい}石器・土器の製作と使用、家畜の飼育、農耕を特徴とし、日本では縄文文化以降がそれに当たる。

<注1>更新世の後で現在に至る1万年

戦前、日本に旧石器時代の遺跡はなく、完新世になってから住み始めたという考え方が定説だった。1946年、相沢忠洋{あいざわただひろ}が人類の遺物は出土しないとされていた関東ローム層で、槍先のようにとがった石器を発見した。そして、1949年の学術調査で、旧石器時代の遺跡と確認された。岩宿遺跡は日本の旧石器時代文化の解明の端緒となり、日本各地で発掘調査が行なわれ、各地で更新世の地層から石器の発見が相次ぎ、旧石器文

化の存在が明らかになった。さらに、浜北人{はまきたじん}(静岡)、港川人{みなとがわじん}(沖縄)などの化石人骨の発見につながった。相沢の発見は、戦前の考古学の定説を知らなかったのが幸いしたものである。

この時代の人々は、打製石器を使って、狩猟や植物性植物の採集の生活を送っていたが、土器の製作や使用は確認されていない。狩猟は、ナイフ型石器や尖頭器{せんとうき}などの石器を棒の先端につけた石槍を使い、ナウマン象やオオツノジカなどの大型動物を捕らえた。打製石器は石同士をたたいて作った石器のことで、握槌{にぎりつち:ハンドアックスとも}は叩く・割る・切るなどの万能石器として、細石器{さいせっき}は3センチ以下の石刃{せきじん}をいくつか木や骨の柄にはめ込んで使われた。また、人々は獲物や植物性植物を求めて、一定範囲を移動した。このため、簡単なテント式住居や洞窟{どうくつ}、岩陰{いわかげ}を一時的に住居として利用した。

この時代の代表的な遺跡は、岩宿遺跡以外にもいくつかある。野尻湖底遺跡群(長野県)は、1962年から始まった市民参加の学術大発掘で、後期旧石器時代のオオツノジカやナウマン象などの化石獣骨や骨器・石器が見つかった。早水台{そうずだい}遺跡(大分県)は、1964年の調査で前期旧石器時代の遺跡とされる握槌・石核{せきかく}などが出土し、前期旧石器研究のきっかけとなった。

今から約1万年余り前、完新世になると、地球は温暖な気候となった。そして、氷河が溶けて海面が上昇して、日本列島が大陸と分離し、原形が形成された。また、気候も現在に近くなった。動物もシカやイノシシなど中小動物が多くなった。樹林帯も変化し、東日本に落葉広葉樹林が、西日本を中心に照葉樹林が広がった。

人々の生活も変化した。中小動物を捕らえるため、イヌを飼って狩猟に用いたり、弓矢を使った。各地に入江{いりえ}が出来、魚介類を捕る漁労の発達を促した。また、落葉広葉樹林の木の実の種類・量は豊富で、ドングリなどの木の実の採集も行なわれた。

狩猟・漁労・採集の道具には、これまでの打製石器に代わって磨製石器が作られた。磨製石器は木を加工しやすいように表面を磨いて作った石器で、石斧{せきふ}・石鏃{せきぞく}・石匙{せきひ}・石皿などがある。また、動物の骨・角・牙で作られた骨角器は、釣針・銛{もり}・鏃{やじり}などに使われた。漁労では、網のおもりに使う石錘{せきすい}・土錘{どすい}、火などで丸木を焼きえぐって丸木舟{まるきぶね}を作った。

縄文時代の名の由来となっている縄文土器は、表面に撚糸{よりいと}状の縄目文様が多いことから、その名が付いた<注2>。この土器は黒褐色{こっかっしょく}・厚手で、600~800度の低温で焼かれたためもろい。土器の形式から草創・早・前・中・後・晩の6期に区分され、縄文時代の時代区分とほぼ一致する。土器は煮沸・貯蔵に使われた。また、採集した木の実などは、貯蔵穴に保存された。

<注2>モースのcord marked potteryの訳語に由来する。

縄文時代は山や海の幸に恵まれ、土器で煮沸できるようになり、食生活は大幅に改善され、老人・幼児も栄養が取りやすくなった。しかし、食料の長期保存が難しかったため、社会の仕組みが大きく変わることはなく、縄文時代が8000年近くに及ぶことになった。

その一方、人口は着実に増加し、湧き水の得られる台地上に集落を形成して定住し、集落も数戸から十数戸へと拡大した。集落は環状集落が多く、竪穴住居には数人から10人程度が住み、中央には炉{ろ}が置かれた。海岸近くの集落には貝塚が見られ、どのようなものを食べていたかが分かる。貝塚は貝類が層をなして堆積している遺跡で、集落の一角にあり、食べ物の残りや土器・石器の破片などが捨てられた。

人は亡くなれば共同墓地に埋葬されたが、副葬品らしいものはなく、貧富や階級の差はなかったと考えられている(違うという説もある)。

この時代の人々は、すべての自然物や自然現象に霊威があると考え、それを畏怖{いふ}し、崇拝した。アニミズム(精霊信仰)である。そして、呪術で災いを避けて、獲物などの増加を祈った。このような習俗を示すものに、土偶{どぐう}や石棒{せきぼう}などがある。土偶は大きさ20センチ内外の土人形で女性像が多く、生殖・収穫を祈る呪術に用いたと考えられる。中期~後期に東日本で分布した。多くは壊され、完全形での出土は少ない。顔面や文様を刻んだ土面{どめん}・土版{どばん}や岩製の岩版{がんばん}もある。また、石棒は、武器の一種とも生殖器崇拝の対象とも考えられる。

死者の多くは、手足の関節を折り曲げて埋葬された。この方法を屈葬{くっそう}といい、死霊の活動を防ぐとか、墓穴を掘る労力を節約するため、など諸説ある。また、犬歯{けんし}・門歯{もんし}などを左右対称に抜き取る抜歯{ばっし}は、縄文後~晩期の風習で、成年式の意味を持つと推定されている。

この時代、遠方集団との交易が行なわれていた。それを示すものが、黒曜石{こくようせき}・ひすい(硬玉{こうぎょく})・サヌカイトなどである。黒曜石は黒色透明の火成岩で、鋭利な切り口のために打製石器などの製作に適した岩石である<注3>。産地は長野県和田峠、熊本県阿蘇山、北海道白滝{しらたき}と十勝岳{とかちだけ}、神奈川県箱根、伊豆七島の神津島{こうづしま}、大分県姫島{ひめじま}などに限定されるので、黒曜石の石鏃の分布は、当時の交易状況を物語る。

<注3>黒曜石製のナイフ形石器は、鋭利で脂肪が付きにくいため、肉を切っても切れ味がにぶることはなかった。

ひすいは半透明で緑色を呈{てい}し、勾玉{まがたま}などの材料として使われた。新潟県姫川{ひめかわ}・糸魚川{いといがわ}流域が特産地である。サヌカイトは、香川県白峰山{しらみねさん}で多産するので讃岐石{さぬきいし}ともいうが、大阪府と奈良県境の二上山{にじょうざん}でも多く産出する。

この時代の代表的な遺跡は多い。青森県の三内丸山{さんないまるやま}遺跡は約1500年間続いた大集落跡で、大型掘立柱建築跡などを発掘し、原始農耕の存在も考えられてている。鹿児島県の上野原{うえのはら}遺跡は草創期の最古・最大級の大集落跡で、竪穴集落跡が52軒あり、早期に定住性の高い集落が営まれていたことが明らかになった。千葉県の加曽利{かそり}貝塚は、日本最大規模の貝塚である。東京都の大森貝塚は、アメリカ人モースによって日本最初の発掘調査が行なわれた貝塚で、日本考古学発祥の地である。岡山県の津雲{つくも}貝塚は、出土した170体ほどの人骨のほとんどは屈葬だが、伸展葬{しんてんそう}もある。また、抜歯の風習を示すものも出土している。

旧石器時代の文化/縄文文化のノート

○旧石器時代の文化

・更新世の時代、打製石器(握槌、細石器)・骨角器の使用

狩猟・採集生活、土器使用なし、一定範囲の移動

・日本列島と大陸は陸続き

・相沢忠洋が石器発掘→岩宿遺跡、化石人骨(浜北人・港川人など)の発見

・代表遺跡…岩宿遺跡・野尻湖底遺跡、早水台遺跡

○縄文文化

・完新世→温暖化→列島は大陸と分離、樹林帯・生息動物・生活の変化

・磨製石器(石斧・石鏃・石匙・石皿)、骨角器(釣針・銛・鏃)の登場

石錘・土錘、丸木舟の使用

・縄文土器…黒褐色・厚手、低温で焼く、もろい。6期区分

・竪穴住居、貝塚

・アニミズム、土偶・石棒、屈葬、抜歯

・交易を示すもの…黒曜石(和田峠、白滝、神津島など)

ひすい(姫川・糸魚川)・サヌカイト(二上山)

・代表遺跡…三内丸山遺跡、上野原遺跡、加曽利貝塚、大森貝塚など

┃文章

旧石器時代は更新世{こうしんせい}の時代で、地球上に広く氷河が発達した時代である。そして、打製石器・骨角器{こっかくき}は使用したが、土器の製作や家畜の飼育は知らず、狩猟{しゅりょう}・漁労{ぎょろう}・採集生活をしていた時代である。氷期の頃、日本列島と大陸は陸続きで、北からマンモスやヘラジカ、南からナウマン象やオオツノジカ、ステゴドン象などが日本列島に来た。

なお、旧石器時代の由来は、1819年にデンマークのトムセンが人類文化を石器・青銅器・鉄器に分け、イギリスのラボックが石器時代を新・旧の2段階に分けたものである。新石器時代は完新世{かんしんせい}<注1>で、磨製{ませい}石器・土器の製作と使用、家畜の飼育、農耕を特徴とし、日本では縄文文化以降がそれに当たる。

<注1>更新世の後で現在に至る1万年

戦前、日本に旧石器時代の遺跡はなく、完新世になってから住み始めたという考え方が定説だった。1946年、相沢忠洋{あいざわただひろ}が人類の遺物は出土しないとされていた関東ローム層で、槍先のようにとがった石器を発見した。そして、1949年の学術調査で、旧石器時代の遺跡と確認された。岩宿遺跡は日本の旧石器時代文化の解明の端緒となり、日本各地で発掘調査が行なわれ、各地で更新世の地層から石器の発見が相次ぎ、旧石器文

化の存在が明らかになった。さらに、浜北人{はまきたじん}(静岡)、港川人{みなとがわじん}(沖縄)などの化石人骨の発見につながった。相沢の発見は、戦前の考古学の定説を知らなかったのが幸いしたものである。

この時代の人々は、打製石器を使って、狩猟や植物性植物の採集の生活を送っていたが、土器の製作や使用は確認されていない。狩猟は、ナイフ型石器や尖頭器{せんとうき}などの石器を棒の先端につけた石槍を使い、ナウマン象やオオツノジカなどの大型動物を捕らえた。打製石器は石同士をたたいて作った石器のことで、握槌{にぎりつち:ハンドアックスとも}は叩く・割る・切るなどの万能石器として、細石器{さいせっき}は3センチ以下の石刃{せきじん}をいくつか木や骨の柄にはめ込んで使われた。また、人々は獲物や植物性植物を求めて、一定範囲を移動した。このため、簡単なテント式住居や洞窟{どうくつ}、岩陰{いわかげ}を一時的に住居として利用した。

この時代の代表的な遺跡は、岩宿遺跡以外にもいくつかある。野尻湖底遺跡群(長野県)は、1962年から始まった市民参加の学術大発掘で、後期旧石器時代のオオツノジカやナウマン象などの化石獣骨や骨器・石器が見つかった。早水台{そうずだい}遺跡(大分県)は、1964年の調査で前期旧石器時代の遺跡とされる握槌・石核{せきかく}などが出土し、前期旧石器研究のきっかけとなった。

今から約1万年余り前、完新世になると、地球は温暖な気候となった。そして、氷河が溶けて海面が上昇して、日本列島が大陸と分離し、原形が形成された。また、気候も現在に近くなった。動物もシカやイノシシなど中小動物が多くなった。樹林帯も変化し、東日本に落葉広葉樹林が、西日本を中心に照葉樹林が広がった。

人々の生活も変化した。中小動物を捕らえるため、イヌを飼って狩猟に用いたり、弓矢を使った。各地に入江{いりえ}が出来、魚介類を捕る漁労の発達を促した。また、落葉広葉樹林の木の実の種類・量は豊富で、ドングリなどの木の実の採集も行なわれた。

狩猟・漁労・採集の道具には、これまでの打製石器に代わって磨製石器が作られた。磨製石器は木を加工しやすいように表面を磨いて作った石器で、石斧{せきふ}・石鏃{せきぞく}・石匙{せきひ}・石皿などがある。また、動物の骨・角・牙で作られた骨角器は、釣針・銛{もり}・鏃{やじり}などに使われた。漁労では、網のおもりに使う石錘{せきすい}・土錘{どすい}、火などで丸木を焼きえぐって丸木舟{まるきぶね}を作った。

縄文時代の名の由来となっている縄文土器は、表面に撚糸{よりいと}状の縄目文様が多いことから、その名が付いた<注2>。この土器は黒褐色{こっかっしょく}・厚手で、600~800度の低温で焼かれたためもろい。土器の形式から草創・早・前・中・後・晩の6期に区分され、縄文時代の時代区分とほぼ一致する。土器は煮沸・貯蔵に使われた。また、採集した木の実などは、貯蔵穴に保存された。

<注2>モースのcord marked potteryの訳語に由来する。

縄文時代は山や海の幸に恵まれ、土器で煮沸できるようになり、食生活は大幅に改善され、老人・幼児も栄養が取りやすくなった。しかし、食料の長期保存が難しかったため、社会の仕組みが大きく変わることはなく、縄文時代が8000年近くに及ぶことになった。

その一方、人口は着実に増加し、湧き水の得られる台地上に集落を形成して定住し、集落も数戸から十数戸へと拡大した。集落は環状集落が多く、竪穴住居には数人から10人程度が住み、中央には炉{ろ}が置かれた。海岸近くの集落には貝塚が見られ、どのようなものを食べていたかが分かる。貝塚は貝類が層をなして堆積している遺跡で、集落の一角にあり、食べ物の残りや土器・石器の破片などが捨てられた。

人は亡くなれば共同墓地に埋葬されたが、副葬品らしいものはなく、貧富や階級の差はなかったと考えられている(違うという説もある)。

この時代の人々は、すべての自然物や自然現象に霊威があると考え、それを畏怖{いふ}し、崇拝した。アニミズム(精霊信仰)である。そして、呪術で災いを避けて、獲物などの増加を祈った。このような習俗を示すものに、土偶{どぐう}や石棒{せきぼう}などがある。土偶は大きさ20センチ内外の土人形で女性像が多く、生殖・収穫を祈る呪術に用いたと考えられる。中期~後期に東日本で分布した。多くは壊され、完全形での出土は少ない。顔面や文様を刻んだ土面{どめん}・土版{どばん}や岩製の岩版{がんばん}もある。また、石棒は、武器の一種とも生殖器崇拝の対象とも考えられる。

死者の多くは、手足の関節を折り曲げて埋葬された。この方法を屈葬{くっそう}といい、死霊の活動を防ぐとか、墓穴を掘る労力を節約するため、など諸説ある。また、犬歯{けんし}・門歯{もんし}などを左右対称に抜き取る抜歯{ばっし}は、縄文後~晩期の風習で、成年式の意味を持つと推定されている。

この時代、遠方集団との交易が行なわれていた。それを示すものが、黒曜石{こくようせき}・ひすい(硬玉{こうぎょく})・サヌカイトなどである。黒曜石は黒色透明の火成岩で、鋭利な切り口のために打製石器などの製作に適した岩石である<注3>。産地は長野県和田峠、熊本県阿蘇山、北海道白滝{しらたき}と十勝岳{とかちだけ}、神奈川県箱根、伊豆七島の神津島{こうづしま}、大分県姫島{ひめじま}などに限定されるので、黒曜石の石鏃の分布は、当時の交易状況を物語る。

<注3>黒曜石製のナイフ形石器は、鋭利で脂肪が付きにくいため、肉を切っても切れ味がにぶることはなかった。

ひすいは半透明で緑色を呈{てい}し、勾玉{まがたま}などの材料として使われた。新潟県姫川{ひめかわ}・糸魚川{いといがわ}流域が特産地である。サヌカイトは、香川県白峰山{しらみねさん}で多産するので讃岐石{さぬきいし}ともいうが、大阪府と奈良県境の二上山{にじょうざん}でも多く産出する。

この時代の代表的な遺跡は多い。青森県の三内丸山{さんないまるやま}遺跡は約1500年間続いた大集落跡で、大型掘立柱建築跡などを発掘し、原始農耕の存在も考えられてている。鹿児島県の上野原{うえのはら}遺跡は草創期の最古・最大級の大集落跡で、竪穴集落跡が52軒あり、早期に定住性の高い集落が営まれていたことが明らかになった。千葉県の加曽利{かそり}貝塚は、日本最大規模の貝塚である。東京都の大森貝塚は、アメリカ人モースによって日本最初の発掘調査が行なわれた貝塚で、日本考古学発祥の地である。岡山県の津雲{つくも}貝塚は、出土した170体ほどの人骨のほとんどは屈葬だが、伸展葬{しんてんそう}もある。また、抜歯の風習を示すものも出土している。


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